しあわせの径~本とアートと音楽と

読書、アート、音楽、映画・ドラマ・スポーツなどについてさくっと語ります

追悼 ありがとうございました、大江さん

先週のポリタスTVで瀧波ユカリが、伊丹十三のエッセイやイラスト(デザイン画)などを紹介しながらいまさらながら伊丹の魅力について語っていた時、それを見ながら「大江健三郎は元気なんだろうか?」と妻に語りかけていました。

大江は伊丹十三が京都から松山に移住してきた時の高校の同級生で、後に伊丹の妹(ゆかりさん)と結婚していますから、伊丹は大江の義兄でもあります。

ですから、伊丹十三つながりで、ふと、大江さんは元気かなと思っていたのでしたが、きょうのニュースで明らかになったように、3月3日にお亡くなりになっていたそうですので、私がふと思ったときにはすでに鬼籍に入(い)られておりました。

若い頃に買い求めた「死者の驕り」や「遅れてきた青年」「個人的な体験」「万延元年のフットボール」「ピンチランナー調書」が読めずに投げだした作品も含めて私の書棚には並んでいて、伊丹が亡くなってから書かれた「取り替え子(チェンジリング)」や「憂い顔の童子」では、充実した楽しい大江文学の読書体験を享受できました。

私のような文学頭(地頭)では、大江作品の真髄に到達できていないことは明らかですが、たとえば、伊丹の死後まもなく書かれた作品で、四国の森で若き伊丹と大江の分身であろう若者たちが息づいていることに圧倒され、畏怖や官能を感じてしまいます。

大江の文章は、読み手に向かって「圧」がかかってくる力がありますが、そういう読書体験はまれで、表層部分しか私には読めていないのでしょうが、文字の連なりの深いところや行間には、四国の森のように何かが潜んでいたり仕込まれているに違いありません。残念ながら私はそれらがぼんやりとしたままで生涯を終えると思いますが、僅かばかりの体験ですが大江作品と出会えて異次元の体験ができて、幸せでした。

ノーベル文学賞を受賞した後くらいだったでしょうか、NHKのドキュメンタリーで大江の日常を追いかけたものがありましたが、激しい息遣いで毎日1時間のウォーキングをしている彼の印象は、私の毎日のウォーキングの習慣のきっかけと継続の力にもなっています。

また、自宅のソファで画板のような板を膝に乗せて、その上の原稿用紙に万年筆でカリカリ原稿を書いている大江の姿もありましたが、万年筆で祈りを刻む修行僧のようでした。

また、彼の独特のやわらかなトーンで語られる、しかし何だか気高い箴言のような「お言葉」は、まるで抗えない教祖のしぐさのように感じられました。

そういうことが総合的なものとして「圧」を私にかけていたようにいま思います。

私は大江の義兄の伊丹十三の方に多く影響を受けた若者のひとりでしたが、高校生の大江もそうだったのですが、いまもう一度大江体験に身を置いても良いかと思っています。

謹んでご冥福をお祈りいたします、ありがとうございました大江さん。  合掌

大江健三郎「燃えあがる緑の木」自筆原稿