しあわせの径~本とアートと音楽と

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コンテンポラリーダンスのような井戸川射子の「この世の喜びよ」を読みました

この世の喜びよ 井戸川射子 講談社

第168回芥川賞(2023年1月)受賞作、井戸川射子(いどがわ いこ)の「この世の喜びよ」を読みました。本書は、中編の受賞作のほかにごく短編の「マイホーム」「キャンプ」が掲載されています。

主人公はスーパーの喪服売り場の女性店員で、小学校教員になったばかりの長女と大学生の次女の母親という設定です。

喪服売り場の近くには、ゲームコーナーがあり、そこには若いイケメン係員とコインゲームを毎日楽しむ常連客のおじいさんがいて、隣接するフードコートには乳飲み子である弟の世話から逃げている女子中学生がいつも同じ席に座っています。

これらの、毎日スーパーに集う人たちを通して主人公の誰でも経験したような「過去」がよみがえり、日常と絡みつきます。主人公は子育てが終わっている年代ですが、フードコ-ナーの女子中学生が、自分や娘たちの過去と重なって、気になる存在なのでした。

閉鎖的な空間の設定も珍しいし、文章は句点「。」と読点「、」が思いがけなく使われていて、しかも、主人公の行動や言葉や思いが「あなた」という二人称で語られますから、とっつきにくい小説でもあります。

著者は、現在と過去の主人公の「思い」を文章にしているのですが、珍しい文体だと思います。珍しいし、居心地があまりよくないし慣れるのに骨が折れるのですが、そのまま一旦全部引き受けてみると、新しい体験ができるように思います。

人が目の前のある場面や言葉や現象を体験することによって、断片的に過去がよみがえることがありますし、その回想シーンが言語化された場合に句読点によって少しずつ角度を変えたものとして連続してよみがえることがままあります。

そういったことを忠実に表す表現方法は、このような文体、コンテンポラリー(現代的)な表現になるのだろうなあと納得できます。

途中で、この文体は詩のようだと思いつつ本書の奥付から著者のプロフィールを引き出したら、彼女はまず詩作品で(「する、されるユートピア」で中原中也賞受賞)で世に出た人でした。さもありなんとこれまた納得しました。

「マイホーム」と「キャンプ」も含めて、本書は切り詰められた日常から人の心を通して抽出された表現方法に満ちています。新しい作品の方が、気取りがなくより自由にダンスするような文体になっている気がします。こういうダンス、好きです。◎