岸惠子自伝 卵を割らなければ、オムレツは食べられない 岸 惠子 (著) 岩波書店
1932年生まれの岸惠子は私の母世代に属するお人で、草笛光子が高校の同級生だったそうで、ハリウッドで言えばエリザベス・テイラーも同年生まれである。ちなみに、マリリン・モンローが1926年、オードリー・ヘプバーンが1929年生まれで、みな私の母親世代の女優たちある。
私が物心ついたころ、岸はフランスの映画監督と結婚しパリで暮らす遠い存在の伝説的な女優だった。大ヒット映画「君の名」や「雪国」は観たこともなかった。
彼女がフランスと日本を頻繁に行き来するようになったのは、戦後の平和な日本が国際的に認知されるようになったころと時を同じくし、彼女のさまざまな家庭の事情や映画出演やそれ以外の仕事が増えたことによるものだったようだ。
そのころから、テレビ媒体に多く顔を出す女優で文化人としてフランス語を操る華やかな岸惠子をよく目にするようになって、カッコいい国際人だなあと憧憬の念を抱いて彼女を見ていた。
その彼女の今日までを、岸惠子側から見た世界が本書に詰め込まれている。こちら側から見えない、もうひとつの岸惠子、別世界に暮らす彼女の生活が見えてくる。
予め知っていたことや想像できていた部分もあるにはあるが、事実上初めて彼女に接することになったので、彼女の個人的な生活を半ば下司な覗き見趣味を満足させるものでもあった。
パリの華やかで冷ややかで複雑な上流階級での岸惠子の暮らしぶりもさることながら、ジャーナリスト岸惠子が接した中東やアフリカの緊迫した生々しく厳しい現実も興味深かった。
女優然としていれば、セーヌ川の流れるところで絵になるにもかかわらず、よせばいいのにイランやイスラエルやセネガルに取材に行き怖い目に遭うのだった。
「卵を割らなければ、オムレツは食べられない」というフランス風のおしゃれな言い回し、日本流で言うと「撒かない種は生えない」「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という無粋な言い回しと同じような意味らしいのだが、本書は昭和の初めから90年近くを生きている日本の著名で自由な女性が、節目節目でエイヤッといくつかの卵を割ってきたことの一代記である。
ただし、オムレツを食べる前に卵を手落として割ってしまったような出来事(ほほえましいことと恐ろしいこと)も正直に綴られていてさわやかなのであった。
彼女の代表作、市川崑監督の素晴らしい映画「おとうと」のレビュー。